ふむふむ、木村硝子店のなかまたち。#05《前編》
第5回 前編
山田節子さん(ライフスタイルコーディネーター)×木村武史(木村硝子店社長)
山田節子さんは、日本人が大切にしてきた心、美意識そして生活観を、いまにふさわしい形で生かし、つなぎ、日々の暮らしを豊かにすべく取り組まれている、ライフスタイルコーディネーターの草分け的存在です。
銀座松屋のコーディネーターとして関わることになったきっかけのお話から、会津若松の老舗仏具メーカー「アルテマイスター」での仕事について、現地での展示会期間中に、お忙しい合間を縫って伺いました。
百貨店の人間には書けない企画書、からはじまった
松屋銀座の「日本人の食器展」
木村 山田さんがものづくりの世界に携わるようになられたきっかけは、やはり、松屋銀座の仕事が大きいのでしょう?
山田 そうですね。松屋とは1968年からのご縁です。最初は商品を納める側だったんですよ。当時の花形素材、アクリルを使用したオブジェが、ちょっとしたヒットになったりもして(笑)。けれど工業製品というものは、工場から出てきた時は傷ひとつなくピカピカですが、使うほどに傷ついて劣化してゆきますでしょう。ゴミを作っているような消失感に襲われて、このままではいけないと……。
オイルショックが一つの分岐点になりました。何かこう、この国が大切にしてきたところに立ち戻り、考えなくては、と思ったのです。
木村 変化を求める高度成長期。考えさせられますよね。
山田 松屋の部長さんに格別な方がおいでになりまして、それまでの取引をやめるのならば、百貨店の人には書けない企画書を書いてみてはどうかと提案してくださって。
木村 山田さんの視点を買っておいでだったのでしょう。
山田 「ものや人や場に新たな関係性を作り出す人を、アメリカではコーディネーターと呼ぶらしいけれど、そんな仕事をしてみては」と。そうして、1972年に新たな契約が始まり、以来、今日に至っています。
木村 40年以上ですか、出会いですね。
山田 その部長さんは、博識で知性の塊のような方で。与えられる日々の課題は常に新鮮でしたが、首を縦に振ってもらえるような企画書を書くには時間がかかりましたね。その後何年もかけて実現するに至ったのが、1977年の(*1)「日本人の食器展」という催事でした。
お持ちいただいた当時のポスターやDM
―日本人の?ですか。意味がありそうですね。
山田 その頃、洋風化の波が吹き荒れて、洋食器がもてはやされ、日常の食卓風景は器も料理も和洋入り乱れ、混沌とし始めていました。このような時代の中で忘れてはならないのは、和食と、和食器の伝統にみられる表現や素材やその技術における美的価値観であり、生活観であるはずです。そこで、日常の基本の器である飯椀、汁椀、小皿、小鉢、箸、箸置きをはじめ、大皿、大鉢、土鍋などを、全国の心ある作り手の窯や工房を尋ねて選び、集め、折衷化されていく食卓の未来化に相応しい器の集大成をするという企画書を書いたんですね大胆にも(笑)。
木村 確かに、うちはずっとワイングラスを扱っているけれど、当時は日本も、暮らしの中に欧米化の波が押し寄せて、変化がいっぱいあった時期でしたね。
山田 ベテランの器のバイヤーを付けて下さって、「全国を歩きなさい」といわれました。生まれ育った環境や、全国のクラフト運動の中核の作り手、美大仲間などを頼りに、企画書に沿って全国を歩き、教えられ、学び、集められたことが大きかったですね。
―百貨店の器売場では、当時どのような食器を揃えていたのでしょうか?
山田 普段づかいの器に関していえば、どこの百貨店でも磁器が主流でしたね。土物は、貫入が入るという理由で扱われていませんでした。プラスチックの上に漆を塗った漆椀が大手を振り、一日三度普段使いの器は、疎かにされていました。例えば、当時の飯椀の単価は300円から500円。心入れのある器はほとんどありませんでした。
木村 催事で扱った飯椀は、どのくらいに設定されたのでしょう?
山田 1000円から5000円ぐらいの価格帯で作ってもらいました。催事開催後、松屋と高島屋の飯椀の平均単価が800円ぐらいに見直されたことが、深く印象に残っています。1977年の第一回展は、400坪ある8階催事場全フロアを使っての催しでしたよ。
木村 それは今では考えられない規模ですね!
辻留さんとの出逢い
山田 この催事は少々話題になり、何年か続くことに成ります。会場から「山田さん、ヘンなおじさんがきて怒っているから、大至急来てください」と。一目見て、その方は当代随一と云われた懐石料理「辻留」の辻嘉一さんとわかりました。
木村 何があったんでしょう、ドキドキしてきたなあ。
山田 はい、伊賀・土楽窯の、ひとつ600円の灰釉の酒杯を、大きな籠に盛るように展示して販売していたんですね。「何か不都合がありましたでしょうか?」私が伺うと、「あなた方は、値段でものをみているのではないか」「なぜ、これほどに品性がある器を600円だからといってかごに入れて売るのか?」と。「あなた方にはこの器は売らせられない。ある限りわたしが買いましょう」。そうして、「あなたが、この会場の器を選んだそうだが、それぞれに一番と思っている、飯椀、汁椀、皿、鉢、湯呑、等々を、土楽の杯を届けがてら、私のところにお出でなさい」、そうおっしゃったのです。
―山田さんは、当時おいくつでいらしたのでしょうか?
山田 ちょうど30半ばの頃でした。その頃の「辻留」といえば、普通は敷居が高く行けないところです。それで部長さんに、同行をお願いしたのです。「辻留」の玄関を入ってゆくのは、とても気の引けることのはずですのに、部長の所作も見事でした。ガラガラガラっと玄関を一杯に開け、「ご主人から賜りましたお品物をお届けに参りました!銀座の松屋でございます!」と、奥に通る声で。そしたら「おはいり!」っと奥からご主人嘉一さんの声が(笑)。「持ってきた器をそこに」、と云われ、並べますと、「何々の飯椀!」「何々の汁椀!」「何々の小皿!」と仲居さんに指示をされて、辻留の器がアイテムごとに並びます。
―わー!それはもう、緊張を通り越して肝を据えるしかないようなお話です……。
山田 そうなのです。そしてこうおっしゃいました。「あなたは少々目が利くと思っているかも知れませんが、目で見るだけではなく、手に持つものは手に持って、口に当てるものは口に当て、選ばなければなりませぬ」。頭から水を浴びせられ、恥じ入り、震える思いがいたしました。
―その後もご縁は続くのですか?
山田 不思議なお話で。最後に「このひとに来年も、この催しをやらせますか?」とおっしゃって。そうしましたら部長が「必ずやらせます」と。
木村 辻留さんはやはり、山田さんを見込んでいらっしゃるんですね、この時点で。
山田 それはどうでしょうか?私自身、もうこの後先のことは緊張であまり記憶がないんですよ。でも、「来年は私が伺って、よき器とはどういうものなのかをお話しましょう」と言ってくださったのです。そんなことがあって、企画展は続くことになるわけですが、日程も決り、ご依頼を恐る恐る台所口に届けに伺いました。すると、「東京 銀座 松屋 山田女史 必ず参ります」と書かれた筆書きのお返事が。
―実際に、お話にいらしたのですか?
山田 ええ。そのときのお話が実に分かりやすく見事でした。「世の中の奥様方は、本格的な懐石作法は、普段のくらしと関係ないとお思いでありますが、それは大きな間違いであります。懐石は食べる事への最も基本的な約束事を合理的に実現したものであります。器は、平凡な姿であって、丈夫で、気持ちが良く、持ちやすく、食べやすく」と云ったように、実に美しい言葉で、良き器の極意を深いご経験の中からお話し下さいました。
―たしかに、すっと入ってきますね。
山田 今でも忘れられないのは、「うつわは野球場のようなものであります。観客席と、プレイグラウンドがあるうつわをお選びになられますれば、どんなにおヘタな方がお盛りになられましても、おいしそうに盛れるのであります。上手の作る器というものは、そういうものであります」と。
今の自分があるのは、
数多くのひとびととの 出会いがあればこそ。
山田 私は幸いにも、辻留さん然り、子供のころから、心に深く残る確かな人にであってゆくんですよ。何度も何度も同じような思いをしてきました。
百貨店というところも、モノやヒトが集まってくる所で、私が若かったころは、産地の方、デザイナー、取引先の方があれこれ教えてくれたものでしたし、一方、百貨店の人も博識で、お客様の情報を作り手につなぎ、作り手の思いをお客様に上手に伝える方がいたものでした。松屋という百貨店も又、様々な出会いの場でした。
小松誠さんの「シワ」は、
同時代的 インターナショナリズム
木村 ひととの出会いといえば、木村硝子店でも長年お世話になっている小松誠さんと、山田さんとのおつきあいも長いそうですね。
山田 学生時代、小松さんは武蔵美、私は多摩美でしたが交流があったんですね。小松さんは卒業後海外に出られて、戻ってこられたときに、松屋のクラフトギャラリーで印象的な展覧会をなさって。その会場で再会したんです。
―小松さんといえば「シワ」ですが……。
山田 小松さんのシワの器の登場は1978年でしたでしょうか?鮮烈でした。その頃、生活用品よりも、ファッションが時代の顔、百貨店の顔になりつつある時代だったのです。
三宅一生さんやコムデギャルソンの川久保玲さんが「ボロルック」や「シワルック」で掟破りのファッション提案をし、パリコレクションで喝采を浴びましたが、実はこれよりも、小松さんの掟破りの「シワ」の器のほうが少し早かったと記憶しているんです。
木村 そうね、多分小松さんのほうが早いよね。あの時期、(*2)ローゼンタールがシワの花瓶を作って、うちのほうが早いって小松さんにクレームがあったのだけど、実際には小松さんのほうが早かったし、それに、日本にローゼンタールの花瓶は入ってきていなかったから、知る由もなかった。結局、あれは和解したんだけれど、ニューヨークにいったら、ローゼンタールのシワの花瓶が山とあって驚いたよ。
山田 トレンドのインターナショナリズム、同時性・時代性というのはあるんですよね
伝統を今の形に変えて 生かす
茶の葉のプロジェクト
―お話を伺ってきて、山田さんは、今を敏感に捉えながら、昔からある手仕事を今に生かす形を模索され続けているのだと思いました。再認識して今に生かすといいますか。
木村 その話でいえば、僕の中では銀座松屋の*「茶の葉」も印象的。椅子に座って飲む日本茶やお抹茶というのは、ありそうでなかった形態でした。
山田 あれは「本物の味を今に伝えてゆく」という思いから始まったものです。1982年、高度成長期まっただ中、女性の社会進出が進み、私たちはお茶汲みに雇われたのではないというウーマンリブ運動も起き、ペットボトルも登場。真に豊かとは云い難い状況でした。
木村 確かに、ゆっくりお茶を、っていう時代ではなかったかもしれません。
山田 お茶というものはかつて、急須に湯を注ぎ、三煎はおいしく飲むことができました。それが一煎目だけ濃い味が出て、二煎目からは味がなくなくなるようなものが増えていた。戦後開発された旨の元、グルタミン酸ソーダのせいでした。お茶にも旨み味が加わえられていたんですね。戦後20年ほどの間に、ひとの味覚が強い味にしか反応しなくなった一例で、茶葉の品評会でもそのようなものばかりが認められるようになって。おいしい一服のお茶は、古来よりこの国に欠かせぬ、心と身体の妙薬です。なんとかせねばと、いつもながらの挑戦的な好奇心が立ち上がり、当時の食品部長さんに「昔ながらのお茶を現代の茶席で」と懇願したのです。松屋銀座に相応しい「銀座の茶席」を作りたいと。
―農薬や化学肥料の使用も原因でしょうね。昔ながらの農法は手間がかかりますから、象徴的ですね。
山田 それから30年、松屋に不可欠の茶席がある売場として、静かに確かに存在してくれています。それは、茶文化に向き合う、真摯なオーナーの望月さんと、茶文化の本質を語り生産の場を行脚し、本物の茶葉作りから、現代の茶席のデザイン・しつらい・ふるまいまでをプランする都市設計研究所の田尾さんというお二人あってのことでしたね。
木村 これもまた、人との出会いですね。
山田 91年の8月にバブルがはじけ、一服を楽しむとか、心を休めるとが、静かな空間の中で過ごしたいとか、日本のもっていた文化の本質をよみとってくれるような人たちが、少しずつ増え始めました。日本茶再生の種がまかれ、日常、しかも百貨店の中で、日本人が忘れかけていた「背筋を伸ばし一服の茶をおいしくいただく」この茶席に、お客様方が絶えなくなったのは、オープンから10年目、バブルがはじけて以後のことでした。
**********
そのほかの『ふむふむ、木村硝子店のなかまたち。』記事はこちらから。
ライターの吉田佳代さんによる、木村硝子店とその周りの人々のおはなしの連載。
吉田 佳代(よしだ かよ)
フリー編集者、ライター。
東京生まれ、立教大学卒業。
出版社にて女性誌の編集を経て、2005年に独立。食からつながる暮らし回りを丁寧に取材し、表現してゆくのが身上。料理本編集や取材のほか、生産者や職人にかんするインタビュー、ディレクションなども多い。媒体は主に、雑誌、単行本、広報誌、広告など。