ふむふむ、木村硝子店のなかまたち。#08《後編》
第8回 後編
-スッキリ洗えてさっぱりするしょうゆさし編-
前編はこちらから
桶田千夏子(Luftデザイナー)× 木村武史(木村硝子店社長)
法律は科学である
木村 桶田さんの言葉で僕が忘れられないのが、「法律の勉強がすべての役に立っている」という言葉ですね。でもその感覚は正しいと思います。僕も学生時代、経済学部にいたのですが、法学部の授業ばっかり受けていたんです。法律に興味があったというよりは、東大の法科の先生がたくさんいて、これが科学なんだ、って、科学の説明もあったの。でも、経済学部の先生は社会科学を学んでいるはずなのに科学の部分の説明がなかったんですよね。
桶田 科学には、これが木か鉄かということを判別していく分類学の側面がありますよね。それを感情的にではなく、理路整然と説明するというか。
木村 そうですね。ぱっと見、常識で見て木だとわかるけれど、きちんと実証する、特性を把握して、裏付けをもって説明できることが科学です。硝子がね、今までの分類だと液体になっているの。でも最近説が変わってきて、液体と個体と二つに分けることしかしてこなかったけれど、液体の部類に決めてしまうのは変だよね、となってきたのが実は最近なの。
桶田 え!最近なんですか?
木村 それで、なるほどね、って。それが科学ですよね。どう分類するか、そこには意味づけがあるわけですから、でもプラスティックであれば分子式で書けるから、明らかに個体になるわけです。硝子は寄せ集めの状態だから、きちっとした分子式では書けないの。でも例えば、ロケットに使うような硝子などは、分子式がもう少し正確に描けるのかもしれないですね。そうなると個体と呼ぶのか、そこもわからないけれど面白いよね。僕が一番熱心に聞いたのが、学校の総長先生の講義だったのですが、彼が哲学者の臼井吉見さんの話をしたのが忘れられなくて。「インテリジェンスとは、知っていることと知らないこととの区別がつくこと」この言葉です。見事な言葉ですよね。
桶田 深いけれど明瞭な言葉ですね。私、小さい頃に科学実験教室にずっと通っていたんです。塩酸や硫酸を普通に使ったり、地質や水質の調査も行ってレポートを書いたりするようなところでした。小学校3年生から中学3年生くらいまでずっと通っていました。
木村 リケジョになっていたかもしれませんね。
桶田 そうでもないんですよね。ただ、物事を考える時に、ある意味、理系的に考える思考回路の癖のようなものは付いているのかもしれません。料理も科学ですし。
機能からデザインにたどり着くタイプ
形やバランスから入るタイプ
桶田 真喜志さんは、機能から、というより、形やバランスから入るのですが、私は条件から形にたどり着くタイプなので、逆方向からのアプローチなんです。それが結果的に出会うといいますか、共存できるのはありがたいです。
—見えないところでロジカルにつながっているんでしょうね。
桶田 中学生のとき、下校途中に伊東屋と松屋のデザインコレクションを見るのがとても好きでした。通学路かのごとく、よく通っていましたね。美大に行こうとか、そういう風には考えませんでしたが、朝、築地に寄ってから学校に行くとか、ちょっと変な子供だったかもしれません。
木村 僕は、硝子に興味を持って、あれこれ見始めたのは、実は社会に出てからなんですよ。
桶田 でも、幼い頃から身の回りで硝子をたくさんご覧になって、それでつじつまが合う、みたいなことがおありではなかったですか?
木村 そうね、そういう感じはあったかもしれません。僕はよく「絶対硝子感」という言葉を使うのですが(笑)、硝子をたくさん見ていくなかで、例えば、手作り硝子と機械で作ったものとの違いを感じることに始まって、とある機械でできる技術を見極めることや、この工場で可能なことは何なのかを見る。そういったことをずっと見てきているので、たとえば、初めての硝子工場を海外で訪ねたとして、「ああ、ここではこんなものが作れるだろうな」みたいなのは感じるといいますか。「絶対硝子感」って、不思議な表現ですが、「絶対音感」とは違うけれどね。そういう感覚はあるんです。
桶田 それは面白いですね。
すでにあるものはもう十分、
世の中に足りていないものを作らなくてはと思う。
—そもそもは、なぜしょうゆさしだったのでしょう。
桶田 木村さんのショールームに伺うと、きらめくように美しいものから素朴なものまで、ありとあらゆるグラスがあって、既に十分だと感じてしまい。そこに対して、私が何か新たにデザインする必要はないのではないかと思いました。私が以前から気になっていたアイテムはひとつあって、それがしょうゆさしでした。世の中には、陶器の素晴らしいしょうゆさしなら、もうたくさんあります。けれども、しょうゆさしって、量が減って初めて注ぎ足したり、詰まってようやく洗ったりしませんか?意外と澱む存在といいますか、リセットの機会がないところが気になっていました。コップは使ったら洗いますよね。しょうゆさしにも、そういうものがあっても良いのではないかと。
—長年のモヤモヤが解決したんですね。
桶田 そうですね(笑)。しょうゆさし自体はとても小さな存在ですが、そこがスッキリすることが、その他のことにも波及したらよいなと思って。多分本当は汚れているのに、目をつぶってきたようなことって、家の中に幾つもあると思うんです。しょうゆさし問題をスッキリさせることで、包丁研ごうかな、とか、排水溝洗おうかな、とか、いつもなら面倒なこともやる気になれたら良いですね。
木村 なるほどね。
桶田 小さなことでも、澱みが流れると、全体の流れの滞りが少し解消してゆくような。そういうものが多分やりたいものなんです。この器もすべてそういうものです。視点というか、隙間産業的な(笑)。
—大したことないのに目をそらして放置していることはたくさんありますよね。いざやってみるとスッキリするのに、なかなか手をつけようとしない。
桶田 そうなんですよ。宿題を残したくないみたいな感覚でしょうか。家の中だけでもいろんなことがありますし、人と関係を持ったら、良いこともそうでないことも、人生いろんなことが起こります。ですから、できるだけ家事にまつわることに関しては、スムーズな状況をつくりたいというか。汚れたら汚れたことがわかるし、溜まったら溜まったことがわかる。人間ですから溜まったたり澱んだり汚れたりするけれど、きれいにしようってわかる状況というか…。状況を把握できる、ポイントオブノーリターンを過ぎる前に引き返せる、みたいな。そういう状況が作れたらよいなという。私は美術の専門教育を受けているわけでもないので、美しいかたちをつくり出したいということがまず先にあるということではなく、問題解決派という感覚。別の視点、別の目線を持てるのは、別の経歴があるからかも知れません。
木村 蓋の部分などは、半年くらいかけて核心に近づいていきましたよね、楽しい作業でした。
桶田 一応、私の提案ではありましたが、しょうゆさしの蓋の方式のアイデアをくださったのは木村社長です。自分だけではこの形にたどり着けなかったと思います。
木村 でも、これは桶田さんのデザインですよね。本人の意思を聞きながら、こうしたらいいの?ああしたらいいの?って図面の段階で好みを引き出していったのは真喜志さんかもしれないけれど、桶田さんの意思、桶田さんのデザインですよね。それがその人の好みになっているから。
—言葉では言えるけれど技術の問題で形にするのは難しい。そこを共同で形にしてゆく作業ですね。
木村 蓋をすぐはずせて洗える。これをこういう風に作ったことがすごい衝撃でしたよね。僕は、飲み込むのに時間がかかることもあるのですが、桶田さんのデザインは飲み込むのが一瞬でした。ピッとわかるというのかな。デザインを見る前になんとなくわかってしまうところもあるの。
桶田 半年間いろいろと試行錯誤をしていくなかで、考え方の基本やフォルム、全体の印象は変わっていないんです。蓋の形であるとか、細部に関しては、技術的な問題で変更した感じでしょうかね。
—清潔だなと思いました。それから、入れ替えるという作業をするのに面倒ではないサイズのギリギリのような。
木村 そうそう。そうなんだよね。ねじきりじゃないというのも素晴らしいんですよね。
桶田 自分自身は自宅でどういうものを使っていたかといえば、古い小さなメスシリンダーを使っていたのです。骨董屋さんで買った。
—ヒントになっているんですね。
桶田 透明の硝子で、軌道を把握したいという気持ちは変わらないです。潔癖症ではないのですが、私、洗えない構造のものが苦手で。お湯を沸かすのは片手鍋で。ヤカンは持っていないんです。コーヒードリップも硝子のジャグで。どこまで来ているかわかる。使い終わったら、スッキリ洗って拭いて、せいせいしたい。そういう感覚です。
木村 なるほど。
桶田 空間の仕事でも、プロダクトデザインの仕事でも、せいせいしたい。もしかしたら、蓋もピッタリしまって落ちなくて、しかも洗いやすいみたいなものができる方もいるかもしれません。でも私はこれくらい、といいますか、全部の要素を一つの中で完璧に実現することはできないので、ある程度不自由さも受け止めて、でも自由になる部分がそれより大きいのであれば、それは意味のあることで。
木村 蓋のあわせの部分を磨らなかったのもよかった。
桶田 磨ると、しょうゆの透明感のある赤褐色と硝子の透明感に、もうひとつ要素が出てきてしまって、過剰な気がして。素材と形と有り様が状況に合っている。お皿でもしょうゆさしでもなんでもそこが大切な気がします。
よい意味での距離感について
意識していきたい。
桶田 今は便利な世の中で、もっと便利なことを探そうと思えば探し続けられると思うのですが、私はそこに飛び込んでいくのが怖いような気がします。包丁も研ぎたいし、お米も研ぎたいし、新聞も読みたいし、ハガキも書きたい。時間は有限なので、そちらに飛び込むということは、何かの時間を削るということで、怖くて手を出さずにいるという感覚があります。
木村 わかります、良いものに出会ったら、もうこれでいい、これを大切にしていこう、みたいにしてほかは見ない感覚。僕も年齢を重ねるごとに徐々にそうなっています。
桶田 状況にもよりますが、メールも返事が返ってくる前提で出すものだと思います。ただ、やりとりが続きすぎると苦しくなってしまいます。一方、ハガキはある意味無責任なもので、返事も出しても出さなくても、どちらでもという感じが私にはちょうどよくて。返事が届いたら嬉しくてしばらく眺めたり、たとえ返事がこなくても、届いていることを願うような。
—良い意味での距離感について、いつも考えていらっしゃるんですよね。デザインされる器に関しても、ほどよい距離感を突き詰めていらっしゃる。
木村 そうね。印象深い脇役。また今度、桶田さんの器で桶田さんの料理がいただきたいですね(笑)。
●対談を終えて
以前、某雑誌の連載で、ありそうでない、ふつうの6寸皿のことを「盛り皿にも取り皿にもなる皿」、シンプルなしょうゆさしのことを「いれすぎ御免のしょうゆさし」と題して、あれこれ書いたことがありました。今回の桶田さんのプレートシリーズもしょうゆさしも、出合った瞬間に当時の思いと重なってワクワク。主役にも脇役にもなるそれらの存在意義についての説明は、さながら心理学のようで、彼女の頭脳明晰ぶりに感心するばかりでした。モノや環境との距離感の捉え方、視点を変えてモノを見る感覚、気持ちの支えがとれてゆくような社会学的道具考に、目から鱗が落ちる思いでした。とにかく、人生きっと無駄なことは何もない、何かが何かにつながって、今があり、これからが続いてゆく。桶田さんのしなやかな生き方を見ているとそう感じました。木村社長の「絶対硝子感」も素敵な考え方。実に楽しい対談でした。最後に、桶田さんの作品は、お話のままの納得の使いやすさでストレスフリーです。いつかまた、買い足したいと思っています。
聞き手・構成・文 吉田佳代
【プロフィール】
桶田 千夏子(おけだ ちかこ)
デザイナー / Luft 所属。1977年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒。大学で法律を学んだ後、料理の道に転身。2010年清澄白河(東京)に山食堂創立。2012年より、真喜志 奈美と共に家具・空間・プロダクトのデザインに携わる。日々料理をしながら「暮らしに必要な物」を見つめ直す視点でデザインに取り組んでいる。プロダクトデザインの仕事として、木村硝子店 テーブルソイソース、和田助製作所 クッキング&サービングスプーンがある。
Luft:http://luftworks.jp
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そのほかの『ふむふむ、木村硝子店のなかまたち。』記事はこちらから。
ライターの吉田佳代さんによる、木村硝子店とその周りの人々のおはなしの連載。
吉田 佳代(よしだ かよ)
フリー編集者、ライター。
東京生まれ、立教大学卒業。
出版社にて女性誌の編集を経て、2005年に独立。食からつながる暮らし回りを丁寧に取材し、表現してゆくのが身上。料理本編集や取材のほか、生産者や職人にかんするインタビュー、ディレクションなども多い。媒体は主に、雑誌、単行本、広報誌、広告など。