ふむふむ、木村硝子店のなかまたち。#010《前編》
第10回 前編
日野明子(スタジオ木瓜・ひとり問屋)×木村武史(木村硝子店社長)
「スタジオ木瓜」の屋号でひとり問屋を営む日野明子さん。モノ好きのルーツは子供時代にありました、松屋商事での仕事の中で、在庫を管理しながら、素敵なモノを広める面白さに目覚めていった日野さん。
日野さんはひとり問屋ですが、木村硝子店は業務用の問屋。今回は、日野さんのルーツを紐解きながら、知られざる、問屋の視点で語り合います。
最近、あんまり問屋をやっていない?
日野 私、実は最近あんまり問屋をやっていない気がするんですよ。これが、いま一番話したいことかもしれないです。
木村 長くやっているといろいろ考えるよね。話きかせてくれる?
日野 私は、器も道具も「使ってなんぼ」と思っていまして。問屋をしているのは、私自身が実際に暮らしの中で使って、よさを実感したデザインやクラフトを広めたいということがまず1つ。それと、そういったモノを扱うお店や作家さん、職人さんを応援していきたいからなんです。会社員から独立した際は、問屋業務がスタートラインでしたが、今は活動が広がってきている感じで、もはや業態にこだわっていないのかもしれなくて。
―そもそも、問屋とは何でしょう?わかっているようでいてよくわかっていないです。
木村 うちは自社のデザインも扱っていると同時に輸入品もセレクトしている業務用の問屋です。お得意さんは飲食店と小売店ですが、飲食店の場合は、流通コストの関係で専門の問屋さんに間に入ってもらって販売しています。
日野 私の場合、問屋としての顧客は主にインテリアショップや個人商店さんです。工業製品や作品を工場や作家さんから買い取ってお店に卸しています。木村硝子店さんとは、直接取引をさせていただいてまして。
木村 実は、直接お願いしている個人の問屋さんは日野さんただ一人なの。日野さんは、うちの製品をどこで売ってもいいと話していて、僕にとってそれくらい信頼している人です。
―そうなんですね!
日野 その分責任重大なのですよね。私は、「ひとり問屋」として暖簾を掲げてはいますが、先ほどもお話しした通り、今は問屋業以外に、地場産業のアドバイスや、大学での授業、講演会といった場で「しゃべること」、そして「文章を書くこと」、「ギャラリーで企画展を行うこと」、4つの相互作用で仕事が成立しているような感じです。
―立場によって、同じ作家さんや職人さんでもお付き合いの視点がかわりそうですね。
日野 そうなんです。問屋の視点、取材の視点、アドバイスの視点。さまざまな立場に身を置くことで、新たな気づきもあって、そんな環境にあってこそ自分なりのセレクトも可能になり、ひとり問屋が続けていけているようにも思えます。難しいのですが。
日野さんと木村硝子店のそもそも
木村 僕が日野ちゃんを初めて意識したのは、 松屋商事在籍当時の注文書なんだよ。92年ごろだったかしら。もう30年になるんだ。
日野 ななな、なんですか?
木村 当時は注文書がファックスでしょう。「日野明子」と名前が書いてあって、夜遅くのヘンな時間帯に送信があるの。翌朝見ると、7時ごろまた注文がきている。いつだったか僕が、午前4時くらいにメールを送った時もスッと返事が返ってきて。それをまた日野ちゃんは、「たまたまです」っていうの。なんだこりゃって思うよね。いつ寝てるんだろうって。
日野 当時はそんな時代でしたよね。倉庫が事務所の地下にあって、差し入れのビール飲みながら検品していました。そういう働き方をしてもタイムカードを押してよかったので、残業代もいただいていましたし、いい時代でしたね。
子供の頃から、
働く人を見るのが大好き
木村 子供時代はどんな感じだったの?工芸を好きになるきっかけのようなものはあったのかしら?
日野 1967年に神奈川県で生まれました。父母は特にモノが好きと言うことはありませんでしたが、模様替えはよくしていました。芳武茂介さん(※ 1)が東京オリンピックの頃デザイン指導で関わられた「ラッキーウッドのデラックス」というカトラリーを使い続けていたことが、私の基準の1つかもしれないです。ほかに、ノリタケのポットが小さい頃から好きだったのと、今は製造されていない柳宗理さんのストンとしたカップ&ソーサーがお気に入りでした。こだわりが強すぎるわけではない家の中で、「これは好き」という気持ちがあったということが、今に繋がっているような気がします。
木村 ちょっと聞いただけでも、素養があるよね。
日野 小さい頃から、大工さん、カウンターで調理をしている人など、働く人の動きを見るのが大好きでしたね。大学は共立女子大学家政学部生活美術科に入りまして。そこで偶然、工業デザイナーの秋岡芳夫さん(※ 2)の講義を受けることができて。職人さんの仕事をいろいろ学んで、「人の手が作ったものは面白い」と感じたことが今につながっていますね。
木村 秋岡さんとの出会いは偶然なんだ、知らなかった。
日野 姉が、インターネットのない時代から情報をよく見ている人で。私が学校のカリキュラムを見ていたら、「秋岡芳夫さんって、この人でしょ?」って先生の本をもってきて。先生は3、4年しか授業をもたれていなかったのですが、1年の時、オリエンテーションがわりにゼミの授業があり、受けてみたら面白くて。姉から託された本にサインもいただいて、受講することになりました。
木村 どのあたりが面白かったの?
日野 先生は、時代の先を行っている方でした。工業デザイナーですが、ご自身に「立ち止まったデザイナー」とキャッチコピーを付けられていました。途中から、「デザインしないデザイナー」になって。今でいう、地場起しのようなこともなさっていましたし、職人の仕事の可能性も広げました。地方に行って良いものを見つけては、サイズや色を変えたりするようなアドバイスを行うことで、さらにモノの価値を高める。そんな、デザインの力も示してくださいました。
木村 すごいね。
日野 今、やっと時代が追いついたような気がします。先生の授業で学んで感動したことを、社会に出たときに役立てようと思ったのが、今の私があるきっかけでもありますね。
木村 松屋商事へはどうやって入ったの?就職活動をしたの?
日野 はい。当時はクラフト全盛期で、松屋には「クラフトマンハウス」、西武には「西武クラフト」、丸善には「クラフト・センター・ジャパン」などがありました。クラフトと呼ばれるものが授業で習ったものと合致していたこともあって、「これだ」と。ある日、募集をみつけた松屋の子会社に面接に行きました。すると、担当の方が私の話を30分以上聞いてくださって、「あなたのやりたい仕事はここではなく、下の階にある松屋商事のような気がします。話をしておきますので出直してください」と言われて。そんなご縁で採用になったというのが、ざっくりとした経緯です。91年のことですね。
―松屋本体と松屋商事とは、どのような関係性だったのでしょう?
日野 松屋本体は北欧デザインの商品の品揃えが優れており、松屋商事は貿易部のような役割を担っていたと言えば良いでしょうか。イッタラ(iittala)社の輸入代理店も兼ねていましたし、当時は代理店がなかったYチェアのような北欧家具の輸入も行っていました。日本画を扱ったり、飲食店卸も行うなど業務は多岐にわたっていました。
当時、ADO(オール・デパートメント・オーガニゼーション)という、松屋と阪神百貨店、地方のデパートとで共同買い付けをするチームがありました。例えば、某有名作家さんの個展を松屋が開きたいとします。作品が売り切れない場合、お戻しすると次回の個展開催は難しいかもしれない。そこで、買い取ってどこかで売る。そういう場合に他の百貨店でも販売できるというしくみでした。美術画廊は昔はどの百貨店にもありましたし、松屋商事では仕入れられないものも、松屋の美術部があるから仕入れられるということもあり、子会社があることでうまく商売が成り立っている関係性だったのだと思います。担当ではなかったので、想像ですが。
谷川俊太郎さんが選んでくれた、
規格外のクラフト「木勝」
日野 木村硝子店さんが、日本クラフト展に出品されたことも印象的でした。
木村 審査員だった詩人の谷川俊太郎さんが、 「木勝」をグランプリ候補に挙げてくださったときだね。当時僕は、「木勝」は審査員に好まれないと思っていた。でも、入選したらとの思いを込めて出展したんです。
日野 日本クラフト展は、社団法人日本クラフトデザイン協会主催でしたが、実務は松屋商事が行っていました。松屋の倉庫に応募作品が送られてきて、審査で選ばれた作品で展覧会や作品販売が行われました。審査員は日本クラフトデザイン協会員の作家さんと、外部からの審査員で構成されていて、谷川さんが呼ばれた年でした。職人さんの手仕事の連携でありながら、デザイナーが存在する「木勝」は、当時のクラフトの概念からすると、相当珍しいものだったと思います。
木村 そうなんだね。
日野 審査会場で、常連作家さんのものや、鋳込みのフライパンのようなクラフトが普通に受け入れられている一方、「木勝」が物議をかもしだしている現場を目の当たりにしました。クラフトの考え方には、一言では言い表せない難しさがあります。刷り込みのあるモノは問題ないのでしょうが、「木勝」は明らかに今までとは規格外で、どう評価したら良いかわからないのが正直なところだったと思います。
谷川さんは頭がまっさらの状態で、ご自身の美の基準で選ばれたのだと思います。
営業担当なのに、
社内ひとり問屋していました
―松屋商事では、展覧会なども担当されていたのですか?
日野 いえ、私は営業でしたので、当時は担当の取引先からの注文に沿って、会社の倉庫にある在庫をピックアップして検品して出荷するのが仕事でした。会社の在庫は品番管理されていましたが、イレギュラーの仕入れのための品番を使って仕入れても、棚卸しの時にその在庫をゼロにすれば、何を仕入れても会社にバレないということがわかってきました。
木村 面白いね。営業が、社内でひとり問屋もやり始めたわけだね。棚卸しのときに商品が売れていればわからないものね。
日野 そうなんです。勝手に仕入れて、自分の担当のお店に勧めて、良いねと言われたら、またさらに仕入れる。影のバイヤー(笑)として収めるアイテムを増やして、最終的に棚卸しの時にはゼロにして何事もなかったようにふるまっていた時期もありました。
基本は営業なので仕入れることは業務ではないのですが、結果としてバイヤーも兼ねていたということです。自分が欲しいものを、卸値で仕入れて試してみるといったようなこともしていましたね。それでよかったらおすすめしようとか、ある程度売り上げが立てば会社の(本当の)バイヤーに話して「この店で取り扱うことになったから会社のアイテムとして続けて仕入れて欲しい」と話すことで市民権を得ていくような感じでしょうか。
―日野さんの「試してなんぼ」が生きていますね
日野 私は、松屋商事でクラフトを扱いたかったんです。でも当初はイッタラ社の担当で、日本のものづくりには触れられない立場にありました。ですが、当時の上司から「漆椀を使ったことあるか?」と訊かれて自分の椀を見せたんです。すると、あまりいいものではなかったのでしょう。「浄法寺漆器工芸企業組合の漆を松屋で扱っているんだから使ってみろ」と言われて使い始めました。そこで初めて、漆の良さに気づいていきましたね。その後、配置換えなどもあり、最終的には松屋本体の担当になりました。
木村 いい話だね。
日野 会社はなくなりましたけれど。「松屋商事は、役割を終えた」というかっこい言い訳のもと、解散話が出た際に、私は7年間使った溜色の漆椀と、朱の漆椀をわざわざ購入して当時の社長に渡し、「こんなにいいものを扱っているのだから、会社をなくすべきではない。とにかく使ってみてください。私が使い込んだ溜色の方は返してください。朱の方は奥様に使っていただいて、そのままプレゼントします」と意を決して伝えました。でも、捨て身の抗議はそのままに、会社は潰れるし、お椀も返してもらえずじまいでしたが。
木村 いろいろ大変だったんだね。無駄な在庫は持たないほうがいいよね。在庫がたまると辛くなるから。だから僕は、間に入ってもらっている問屋さんに対しては、極力自由に返品できるようにしているんだよね。
日野 どういう意味ですか?
木村 飲食店卸をやっていると、間違えも多いんだよね。すると、それを返せないと在庫が溜まってしまうでしょう。飲食店卸の問屋さんがお得意さんを200軒持っていたとして、売り損なったものを他が買ってくれるかというと、その確率は低いから。
日野 アイテム数も多いですからね。
木村 うちと直接取引のある飲食店問屋が仮に200軒あるとして、飲食店問屋のお得意さんは200軒あるとするでしょう。すると、200✕200=40,000軒の飲食店が、キムラのグラスを使う可能性があるということになります。とするとその先にも商品が次に売れるチャンスがあるわけ。これは僕が食器屋さんで若い頃に修行をした経験が大きくて。1年間倉庫を担当していたとき、何年も売れていないような在庫がたまっていたのだけど、それを仕入れ先に返品してもいいかと社長に聞いたらダメだと言われてね。なぜかを聞いたら、「そんなことをしたら仕入れ先が嫌がるから」、といわれたの。でも僕は、社長を無視して出先に電話を入れて、引き取っていただいて倉庫を整理した。そうしたら叱られたよね。でも、それは今の会社に生きているように思う。
日野 なるほど!
突然、ひとり問屋デビュー。
「スタジオ木瓜」うらばなし
日野 松屋商事の解散が98年のことで、しばらくのんびりしていましたけど。スタジオ木瓜(ぼけ)という屋号がついたのは木村硝子店の三枝静代さんのおかげなんです。木瓜は私、スタジオは三枝さんが考えました。
木村 それは知らなかった。
日野 飲食店を始める予定の友人が、木村硝子店のロゴ入りの「コンパクト」を使いたい、と見せてくれたのですが、本当は無地が良かったらしいのです。ならば、と一緒に木村硝子店を訪ねたところ、木村社長が「飲食店には直接卸さないけど、日野ちゃんが売ってくれるならいいよ」とおっしゃってくださって。私を介してその方に卸すことになったんです。いきなりの一人問屋スタートでした。
木村 そうだったんだ!
日野 三枝さんに、木村硝子店の取引口座を作るから名前を決めるよう言われて、「スタジオ木瓜」という屋号になりました。当時、私が考えていた屋号は、木瓜か百舌鳥で。でも、鳥はあまり詳しくない。木瓜は挿木も効くし、散り際はあまり美しくはないけれど棘もあって生命力もあって。字面は綺麗だけれど読めないというのも、人をケムに巻く感じがあっていいのかな、と。
三枝さんに「ボケにします。木に瓜で木瓜です、」と言ったら、「日野ちゃん、それでもし独立しちゃったら、電話口で、ボケの日野ですっていうんだよ」って言われて(笑)。それはちょっとまずいと思うから、「スタジオ木瓜」ってつけておくねって。
木村 へええ。面白いねえ。
日野 もし変えるなら、「アトリエ木瓜」でもなんでもいいけど、変えるときは言ってね、と言われて、そのままズルズルと今に至っております。同時に社長からレップ(契約営業)としてのお声がけもいただいて。
木村 そういえば、新宿のリビングデザインセンターOZONEでの展覧会にもつながったんだよね。
日野 はい。新宿のOZONEのディレクターが木村硝子店に仕入れのためにいらしらした時、GWに百人くらいの作家さんの飯茶碗企画があるけれど進んでいないという、雑談のような相談のようなお話を持ちかけられて。OZONEは個人作家との繋がりがないので、私にどうかと社長が勝手に話を進めてくださって(笑)。
木村 日野ちゃんならすぐに百人集められるよね。
日野 いえ、私、会社では展覧会の企画はしたことがなかったので。でも大胆にも二つ返事でお引き受けしまして。さすがに百人は難しいので五十人にしていただきました。1999年のことです。
木村 あれが、プロデューサーとしての初仕事だよね。当日、遠くから、日野ちゃんかっこいいなあってみていたんだよ。
日野 3度にわたって青山のギャラリーcomoさんで木村硝子店の展覧会をさせていただいたこともありました。業務用という視点は当時のさきがけで、あるときお店の方が「日野さん、業務用って面白いわよ。木村硝子店の展覧会をしたいから中入って!」っておっしゃって。
(※ 1)芳武茂介…1909-1993 山形県出身のデザイナー。鉄、ガラス、ガーデンファニチャーなど、幅広いデザインで、日本のものづくりを支えた。日野さん自身は面識はなかったが、当時、同じ事務所に勤務していた荻野克彦氏、増田尚紀氏(芳武茂介氏のデザインを今も作り続けている)などと交流があるため、親近感を覚えていたそう。
(※ 2)秋岡芳夫…1920-1997 熊本県出身のデザイナー。東北工業大学を60歳で定年後、自由に好きなことをしようと思っていた矢先に、共立女子大学で講義を持つこととなったという(日野さん談)。日野さんは、秋岡芳夫氏の授業を直に受けながら学生時代を送り、退官の年に卒業。最後の生徒となった。
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そのほかの『ふむふむ、木村硝子店のなかまたち。』記事はこちらから。
ライターの吉田佳代さんによる、木村硝子店とその周りの人々のおはなしの連載。
吉田 佳代(よしだ かよ)
フリー編集者、ライター。
東京生まれ、立教大学卒業。
出版社勤務を経て、2005年に独立。食からつながる文化や暮らし回りを主に扱う。書籍や雑誌、広報誌などの編集のほか、インタビュー取材も多い。