ふむふむ、木村硝子店のなかまたち。#09《前編》
第9回 前編
辻和美さんのルーツ
モノ作りの縦軸と横軸のはなし
辻和美(factory zoomer)× 木村武史(木村硝子店社長)
30年来の親交がある、木村硝子店社長の木村武史氏と、金沢で「factory zoomer (ファクトリーズーマ)」を主宰する硝子作家の辻和美さん。辻さんの硝子との出会いから、初期のアートワーク、食器製作に至るまで。初めてづくしの秘話を伺います。
辻さんの作品は、とにかく
「いいなあ、」というイメージ
辻 知り合って30年近く経つんですね。
木村 改まってお話するのは初めてのことで、緊張しています。ここしばらく、辻さんの個展が盛況すぎて、なかなか伺えずにおりましたが、先日金沢で、しばらくぶりに新作を前にして、さらにコレクションが増えてしまいました(笑)。
辻 急にかわいいものを作ってしまって不安だったのですが、気に入ってくださって。それこそ、30年前初めて個展にいらしてくださったときから、いつもお求めくださっていますよね。
木村 辻さんの個展のことはどれも印象深く覚えています。ただただ、「いいなあ、」という強いイメージが残っていて。
辻さんの新作。空に花、草、入れ子にしてくるくるまわすと風景がストーリーになる。「今日も晴れのち曇りで少し雨。コロナ禍ならではの、体温を感じられるようなモノが生まれた気がします。外に出られない分、器で気分を味わえるような」(辻さん)
―木村社長にとって、辻さんのガラスはどのようなものでしょう。
木村 言葉にすればおそらく、「衝撃」ということになるのかもしれませんが、表現が難しいですね。辻さんは、「私は好きに作っているだけなんです」、とよくおっしゃるのですが、考えてみると僕自身もそうで、作りたいと思う硝子を作っているだけ。自分の好きなものを探しているに過ぎない気がします。
辻 幅を広げたいと、常に挑戦してはいるんです。作家は、自分の手跡や表現、しるしのようなものを残したいと思っているところがあります。と同時に、それを一度捨てて、違うものを作りたい、作らなくては、という気持ちも持っています。その度に怖い気持ちになりますが。
自分に合う周波数を、
常に探している
木村 先日、新シリーズの「zoomer+(ズーマプラス)」を、すごい勢いでデザインされる様子を拝見していて、描きながらご自身がピンとくるものを探っていらっしゃるように感じました。
辻 木村硝子店さんのショールームの2階でパパパパって(笑)。
木村 早かったですね(笑)。
―長年温めていらっしゃるイメージが、ある瞬間に溢れ出るような感じでしょうか?
木村 あくまで僕の言葉ですが、体にある、何か周波数的なものが、パッと書いたものに重なれば完成です。スケッチしながら図面を引いている時に、頭の中のイメージと、絵にかいた形が重なるのと一緒です。辻さんを見ていて、「ああ、この方は僕に似ている」と感じました。
辻 確かに、自分に合う線を探している感じです。
木村 工業製品の中にも、「この形なら好きで好きでたまらない」と思えるようなモノは確かにあります。僕は何しろ、たくさんの人が作っている、どこにでもあるものばかりを作り続けていますから。
辻 アイテムとしては見たことがあったとしても、それが木村さんの手にかかれば、また全く違うものになっていきます。グラスという制限の中で、次々に新しいものを作っていかなくてはならないということは、結局のところ、1ミリ違えばもう違うものです。
木村 僕もそう思っています。新製品を作って、何かのデザインをコピーしていると言われたことは一度もないですね。
辻 グラスの形は限られていますから、それを言い始めたら、コップ自体、吹いてはいけないということになってしまいます。コップもワイングラスの形も、全て真似になってしまう(笑)。
木村 そうですよね。
辻 そういう意味で私たちは、とても狭い、限られた中でモノを作っているということを思いますね。制限がないとモノは作れませんが。
木村 ソムリエさんやバーテンダーさん、料理人の方々は、うちの器に特に興味を持ってくださっている方々ですが、そういった方たちが、1ミリ違うだけで敏感に反応されるんですよね。私たちの商いは、そういった細かい感度に支えられている。それに尽きます。
―使った方がどうとらえるかは、考えて制作されているのでしょうか?
木村 傾向はある程度わかっていて、その中でどうするか、自身に置き換えて考えている気がします。私なりの好みを探し出すと言いますか。辻さんは私の制作スタイルより、もう少し自由にご自分をぶつけて作られている印象がありますが。
辻 私の場合は作家ですし、制作点数も木村硝子店さんと比べると少量ですから、最終ユーザーでの使われ方より、自分のなかで気持ちがいいと感じるものを作る方が多いかもしれません。最近思うのは、「持っていたいものを作れたら」ということでしょうか。すぐに使わなくても、「持っていたら嬉しい」という気持ちにつながるものといえば良いでしょうか。
22歳の時から、
ガラスがパートナーに
―辻さんと硝子との出会いについて伺えますか?
辻 大学では、グラフィックデザインを学びました。当時、「コム・デ・ギャルソン」が好きでたまらなくて、ファッションの道に進みたいと思っていたのですが、そう簡単にはいかなくて。そんな時、父の友人の勧めもあって、アメリカに留学することになりました。
木村 そうだったんですか?!
辻 はい。それで、アメリカに行くからには、何かできるようになりたいと思って。
当時、「ステンドグラスマガジン」という雑誌がありまして、たまたま書店でぺらぺらとめくっていたところ、ステンドグラスアーチストの特集が組まれていました。ステンドグラスは、平面をガラスという素材に替えて表現するものです。平面に興味があってグラフィックを専攻していた私にとって、一番想像しやすく思えたと言えば良いでしょうか。現在の私の制作スタイルである宙吹き硝子などは、当時はまだ想像もつかない表現手段でした。
その特集の中で、ナルシサス・クアグリアタさんという、サンフランシスコで活躍するイタリア人の作家さんの存在を知りました。顔のポートレートをそのままステンドグラスにしている方で、鉛の線を髪の毛に見立てるなど、アートとしてのステンドグラス制作をされている方です。
記事の最後に「弟子募集」とあり、早速手紙を書きました。
海外の大学にいくのと、弟子になること、2つが同時でした。
木村 初めて聞きましたよ。
辻 二足のわらじで、弟子で大学生で、大学に行きながら吹きガラスも覚えました。それで、ステンドグラスの硝子も、一枚一枚吹きガラスで作るということを知りました。
―おいくつの時ですか?
辻 22の時です。その時から、硝子は私のパートナーになりました。帰国したタイミングで金沢の伊龍山工芸工房という工芸の研究所が設立され、助手として呼んでいただきました。そこから工芸の勉強を始めた感じです。
―つまり、アートから工芸に入られたのですね。
辻 アメリカでは、「アートとして硝子で何ができるのか」という表現を学んでいました。硝子科も、彫刻科の下に入っていましたので、彫刻を勉強しながら硝子を扱う位置づけでした。
コンセプト重視だった
アメリカから受けた影響
―日本との違いには、すんなり馴染めましたか?
辻 違和感はありましたね。アメリカはコンセプト至上主義で、技術的なことは後からついてくるとか、職人さんにお願いすればいいといった感じで。それに当時、コンセプトは特に大切なものでした。見たことのないもの、新鮮であるものほど有利なんです。
―表現自体が、ということですか?
辻 そうですね。アイデンティティとか、自分自身の表現とか。そういうことが大学の最も目指しているものでしたね。「技術は誰かできる人にやって貰えばいい」という。
木村 なるほど、同じ例で言うと、ベニスへ行くと、ガラスを作らないガラス作家がたくさんいますよ。日本は状況がひっくり返っている気もしますが(笑)。
辻 やはり日本は、工芸が大切なんでしょうか。
木村 そこは考えますね。大切なのはわかるのですが、形のどこにこだわりがあるのか、気になることは多いです。
―アメリカのコンセプトワーク的な考え方と、日本でいう細かい技術にこだわる工芸。両方に接したご経験が、作品づくりに与えた影響は大きかったですか?
辻 アメリカで勉強したことは大きかったですね。モノの組み立て方とか。そのときはわかりませんでしたが、長年かけて、じわじわと学んだことに気づかされている感じでしょうか。日本で工芸から勉強する場合とは、少し考え方が違うのかもしれないと思うようになりました。
木村 そういうことなんですね。辻さんの作品は、単なる私の「好きか嫌いか」という物差しで測っても、ぴかーっと光っているんです。日本の作家さんでそう感じる方は、実際少ないような気がしています。
―必然性のようなものですね。
木村 そうですね。「どうしてこの人はコップを作っているのか?」 のような、問いかもしれません。
モノ作りの
縦軸と横軸について
辻 私は、モノづくりには縦軸と横軸があると思っています。縦軸が技術や素材だとしたら、横軸は生活や祈りや、また違った軸を意味します。両方があって、モノが作られていくと思っていますが、私は横軸派かと思っていて。
木村 この間、うちの製品で、高さが3ミリ違うものまでは製品にして、4ミリ違ったら不良品にしようか、という話をしていたんです。けれども、サイズが4ミリ違うものがありまして。図面で見ても4ミリ違う。けれども、パッと見た雰囲気がいいので、全部普通に売ることにしました。「社長、4ミリも違ったらクレームこないでしょうか?」と社員が心配していましたが、クレームはないです。
辻 綺麗ならいいんですよね。
木村 物差しを持ってきて、1ミリ違ったらだめ、みたいな世界は確かにありますね。でも、辻さんのおっしゃるように横軸の話は大切で、本来はそういうことではないと思っています。
辻 検品の際に、悪いところを見つける癖がついてしまうんですよね。わざわざ悪いところを見つけなくても良いのではないかと思います。もし戻ってきたら、その時に考えればいい。工芸でいうところの、素材を見つめ、技術的なことを学ぶことはもちろん大切ですが、私がいきついたのは、「人間の営む暮らし」の部分。それにつきると思っています。
今、私の作品は、自分の生きてきた日常や暮らしの半径がベースになっています。暮らしの範囲からあまりにも遠いものは作れない気がしますね。もしかしたらできるかもしれませんが、責任が持てない感覚があります。
食器制作にシフトしたのは
意外と最近
木村 当初はアート作品を作っていらっしゃいましたよね。
辻 食器製作にシフトしたのは2000年以降です。1990年から2000年くらいまではアートピースを制作していました。
1990-2000年頃、辻和美さんの作品が木村硝子店のカタログの表紙を飾っていた。
―昨年、名古屋の駅構内に作られたクリスマスツリーの記事を読みました。公共の場所で人々の日常に触れる作品からは、新しい感覚も生まれそうですね。
辻 5メートルのクリスマスツリーを制作しました。テーマは青。リサイクル硝子だけを使った巨大なツリーでした。「コロナ禍だけれど、みんなで気持ちを上げていこう」的なコンセプトで、芯は全て鉄骨なのですが、オーナメントが硝子でした。大変な経験でしたね。
木村 それは知らなかったです。
辻 オーナメントの形は、日常から出てきたものが多いです。小判型の楕円のお皿に穴を開け、ぶら下げました。ブルーの濃淡を葉に見立てて。
「できない時の110番」
のような存在だった
木村 以前は、現代アートの作品制作の際にも、連絡をくださっていましたね。
辻 東京と金沢で、しかも電話でご相談していました。造形物のニュアンスの感覚が通じ合うということ自体、よく考えるとすごいことです。例えば私が、「巨大なガラスの玉が欲しいのですが、自分では吹けなくて」とお話しすると、汲み取ってくださって、工場に連れて行ってくださって。
木村 大きなガラスの球体を作りましたよね。
辻 ガラス玉をいくつか天井から吊るしてその球体が振り子のように揺れるインスタレーションで、ガラス玉にはラスターカラーで虹色のエナメル彩を施していただいたり、「できない時の110番」のような存在でした。
―工房では不可能なものということですね。
辻 自分の工房で作れる限界はありますから。また、ラスターカラーは有毒で、私の工房で扱うには難しかった。当時の工場は今もありますか?
木村 無くなりましたね。職人さんも減って、なくなった工場はこの数十年で数えきれません。今はあのような大きなものは日本では作れなくなりました。私は行ったことないのですが、チェコで1箇所あったかしら。
辻 チェコ!
**********
そのほかの『ふむふむ、木村硝子店のなかまたち。』記事はこちらから。
ライターの吉田佳代さんによる、木村硝子店とその周りの人々のおはなしの連載。
吉田 佳代(よしだ かよ)
フリー編集者、ライター。
東京生まれ、立教大学卒業。
出版社にて女性誌の編集を経て、2005年に独立。食からつながる暮らし回りを丁寧に取材し、表現してゆくのが身上。料理本編集や取材のほか、生産者や職人にかんするインタビュー、ディレクションなども多い。媒体は主に、雑誌、単行本、広報誌、広告など。